先日、「銀河鉄道の父」を観た。
いつの間にか、近所のスタバの
2階が映画館になっていた。
僕は、若い頃から、
賢治に夢中であった。
雨ニモ負ケズのデクノボー
の思想に、恋焦がれた。
花巻に行って、星空を見上げたのは、
もう30年も前のことだ。
「銀河鉄道の夜」は、不思議な物語だ。
銀河鉄道999のように、
広大な物理宇宙を
旅するわけでもない。
当時は銀河がたくさんある
ことがまだ知られておらず、
宇宙とは天の川ぐらいだと
思われていた時代である。
そもそも、主人公の名前が、なぜ、
ジョバンニ(ヨハネ)なのだ?
ケンタウル祭も、
欧州の夏至の日の聖ヨハネの
祭りのようでもあり、
作中の不思議な名前の由来
には諸説ある。
ほぼ同時代であった
タイタニック号の沈没(1912年)
と「銀河鉄道の夜」
(1924年頃執筆始め)は、
賢治の宇宙の中で接続している。
列車にタイタニック号の
乗客であった人たちが乗ってくる。
沈没した海も大西洋から
太平洋へと変えられている。
とても利他的な思いで
空へ帰っていったから、
銀河鉄道に乗り合わせたのだ。
賢治にとって、妹トシの存在は、
大きかった。
言葉にできないくらい。
サン=テグジュペリ
「星の王子さま」(1943年)
の中で、王子のバラへの愛が、
世界中への愛と同じぐらいの
赦しの普遍性、または、
時間の無時間性、物語の非人称性
を持っていたように、
夭逝する妹への賢治の愛は、
花巻という小宇宙で、
全世界を今も照らしている。
戦争と武器が絶えなかった
20世紀だが、
人類はもう、洋の東西で、
世界を平和に導く物語は
手にしていたのだ。
人には
(自分にも、相手にも、敵にも)、
愛する人がいる。
もう、このことだけで、
戦争を終わらせる理由になると思うのだ。
宮沢賢治の優しさは、きっと、
トシと二人で、
「時の終わりに」立っている人の
優しさなのだ。
それが、仏教的なのか、
キリスト教的なのかは、
もはやどうでもいい。
ゆるすことによってしか実現されない、
みんなの平和、自由、暮らしが
あるのではないか?
毎瞬、毎瞬、宇宙が生まれ直している
のだとしたら、
いつでも、どこからでも、
新しい縁起を始めることはできる。
映画は、賢治とトシの
峻烈なまでの優しさを、
お父さんの愛情が大きく大きく、
包み込んでいる。
銀河鉄道の原型となる詩の中で、
細長い緑の葉露が含む色を、
薤露青(かいろせい Kairo-Blue)
と表現した賢治の心象は、
あまりに美しい生命の讃美歌だ。
銀河鉄道の中に、
一念三千の思いを読み込むのも、
間違いではないだろう。
私たちが愛を見ることで、
世界が愛に満ちるのであれば、
やはり愛を見ることを選びたい。
「銀河鉄道の夜」については、
語りたいことがまだまだあり、
稿を改めてまた話したい。
今福龍太「宮沢賢治 デクノボーの叡知」
谷口義明・渡部潤一・畑英利「天文学者とめぐる宮沢賢治の宇宙」
などのことも、
たくさん話したいのである。
いい映画だった。ありがとう。
生かされていることに。
皆様がいてくださることに。
そんな思いに包まれた。